―私が小名川さんと出会ったのは山本彩さんの現場でしたが、最初はキーボードの方なのかと思ったらキーボードを超えて全体のマニピュレートもしていて、ギターも弾きだしたりしてちょっとびっくりした印象があって。大原櫻子さんのステージでもご活躍されていて、色々と幅広くやられてますけども。
昨年まで亀田誠治さんの事務所「誠屋」にいらっしゃいましたよね?そもそも亀田誠治さんとの出会いはどういった形だったんですか?「誠屋」に入った経緯というのは?
小名川高弘(以下K):バンドでデビューしたのが19歳のときで、そこから2007年までバンド活動していたんです。CHARCOAL FILTERっていうバンドをやっていて、そこではギタリストだったんですよ。その活動の中で亀田さんにプロデュースで入ってもらっていた時期がアルバム3作分あって、そこが亀田さんとの出会いです。
―バンドではどこのレーベルに所属されてたんですか?
K:レーベルは結構転々としました。最初はコロムビアで、そこからワーナーミュージック、日本クラウンと。ただ、毎回同じチームがスタッフごと移動していたという、ちょっと珍しい経歴ですね。
―デビューされたのが19歳ということは高校卒業してすぐですか?
K:高校卒業して、大学1年で事務所が決まって。そこから色々準備して大学2年のときに最初のシングルでデビューしました。
―大学2年でメジャーデビュー。
K:そうです。CHARCOAL FILTERとして。
―その中で亀田さんとの出会いがあったというお話ですけど、その出会いはバンド活動の中でどれくらいの時期だったんですか?
K:中間ですね。1999年にデビューして、確か2001年ぐらいでお会いしたと思います。一緒に制作してたのが、2004年までいったかな…?ぐらいですね。そこからまたセルフプロデュースに戻って、で2007年にバンドは解散するんですけど。
―と言うと、バンドの活動期間は何年間ですか?
K:メジャーデビュー期間は8年ですかね。この期間に出会っていたので、解散するときに亀田さんに報告をしに行って、「今後どうするんだ」って話になったときに、「亀田さんみたいなプロデューサーを目指したいとずっと思っていて」っていう話をしたら、「じゃあうちにおいで」と言ってくださって、誠屋に入社しました。
―誠屋さんでは主に作詞・作曲をされてたんですか?
K:いえ。最初は亀田さんのアシスタントをしてました。
―そうなんですね。
K:マネージャー的なスケジュール管理もするし、亀田さんの案件をアーティストさんと向き合って音楽ディレクターとして動いたりとかもするし、APバンクフェスなどのライブに参加する際には、現場で譜面を書くこととかもやったり、とにかく亀田さんがやることを全て一緒になってやっていた感じでしたね。“音楽プロデューサーとして”っていうところを武者修行させていただいた感じでした。
―演奏の仕事はしてなかったんですか?
K:誠屋に入って最初の6~7年はそういう仕事はやってないです。
―忙し過ぎちゃったんですか?
K:完全にスタッフとして亀田さんのために動かなきゃいけないっていう。
―そうですよね。スケジュールだけでも大変ですよね。
K:なので、弾いていたのは亀田さんのベースチェックのときぐらいですかね(笑)
―それは意外ですね。
K:本当に、楽器を全然触らない期間がそれぐらいあって。
―だからこそ、その期間がいい経験なんでしょうね。
K:もう、今の自分のほぼ全てがそこにありますね。やっぱりバンドの経験だけだと、音楽がジャンル的にある意味限られてくるので勉強しないといけないことがたくさんあって。これじゃ辞めても音楽プロデューサーにすぐはなれないなって分かっていたんですよ。だからどっかで色々勉強しなきゃと思っていたときにお声掛けをいただいて、本当に感謝でしかないんですけど。そこからですね。
で、鍵盤はバンドを始める前、ずっと小さい頃からやっていたもので。でもバンドのジャンル的に鍵盤が必要ない音楽だったのと、ギタリストだったので、鍵盤に触れる機会がなかったんです。亀田さんの元に行ってから、鍵盤というものと改めて向き合う時間がやってきました。
―鍵盤は何歳からやってたんですか?
K:幼稚園のときからピアノを習ってたっていうので始まっています。習っていたのは中学までですが、そこからも学校の合唱コンクールや卒業式とかでも伴奏を弾いたりしていたので、ずっと触れていたんですけど。高校に入ってからギターを初めて持って。バンド活動が始まるようになってからはギターばかりになっていったっていう。結構、異色な経歴だと思います。
―そこでお聞きしたいんですけど、なぜ高校でギターを始めたんですか?
K:ピアノに出せない音があったからですかね(笑)。当時吹奏楽部もやっていまして、僕はトランペットを吹いていたんですけど。中学のときに吹奏楽部の同級生で仲の良い友達が、中2のときにアメリカに転校になって。僕それまで洋楽は聞いてなかったんですけど、彼から「アメリカ行ったらこんな音楽あったよ」って送られてきたのがBON JOVIだったんです。そこからですね。
―なるほど。
K:「ギターソロってかっけー!」とか。そこからいろんな洋楽を聴くようになって、一気にギターサウンドが大好きになって、「弾いてみたい!」っていう感じですね。
―ピアノをやってたから相対音感的なものもあって。
K:音感は持ってました。
―チューニングもチューニングメーターいらずで?
K:いや、そこまではなかったです(苦笑)
―じゃあ和音自体は分かるからコードは分かったり?
K:コードは分かるんですけど、そもそも押さえ方が違うので、どこのフレットが何の音だっていうところの解釈をピアノと位置付けるのにはそれなりに時間はかかりました。
―でも高1ではじめて、高校で3年間やって、卒業してプロデビューですからすごいですよね。
K:そうなんです(笑)。本当に僕らでいいんですかっていうくらいのペーペーだったんですけど(笑)
―高校生の頃からのバンドだったんですよね?
K:そうです。高校2年のときに同じ学校の仲間で組みました。だから本当、ギターはじめて1年経ってバンドやりたいと思って組んだバンドですね。
―高校はみんなで文化祭とかも出たんですか?
K:そうですね、まさに最初は文化祭に出るために組んだようなバンドでした。
―メンバーはその間変わったりは?
K:まったく。初期メンバーのままデビューして解散まで。
―すごいですね。
K:U2とか、BUMP OF CHICKENとかと同じような境遇ですね、そこは。
使用してきた楽器・機材の変遷~マニピュレーターも兼任するようになった経緯